大阪地方裁判所 昭和32年(ヨ)1387号 判決 1958年9月11日
債権者 ソシエテ・デ・ユージンヌ・シミーク・ローン・プーラン
右特許法第一六条による代理人 曽我清雄
同 曽我道照
右代理人弁護士 西本寛一
外三名
債務者 吉富製薬株式会社
右代表者取締役 竹田義蔵
右代理人弁護士 清瀬一郎
外三名
主文
債権者の申請はこれを却下する。
訴訟費用は債権者の負担とする。
事実
≪省略≫
理由
第一、当事者間の争のない事実
債権者が医薬品等の製造販売を業とするフランス会社で、日本においてクロルプロマジンの製造方法について債権者主張どおりの四件の特許権を有していること、債権者の有する第二〇七、一三四号特許の要部が債権者主張どおりであること、債権者が塩野義に対して日本における右各特許に基くクロルプロマジンの独占的製造、使用、販売権を与え、塩野義はこの実施権に基き昭和三〇年四月頃から「ウインタミン」という商品名でクロルプロマジン製剤を全国に販売していること、債務者は医薬の製造販売を業とする会社であるが、吉富工場において「コントミン」という商品名でウインタミンと同一構造式のクロルプロマジン製剤を製造販売し、武田を発売元として販売していること、クロルプロマジンが債権者主張どおりの優れた薬効を有する新薬であること、及び債権者がウインタミンを製造する方法が債権者主張どおりであり、債務者がコントミンを製造するために実施していたオキサイド法の技術過程が、その全体をコントミンの製造方法というかどうかは別論として、債務者主張どおりのものであることは、いずれも当事者間に争がない。
第二、ところで、債権者は、債務者のオキサイド法は、債権者の特許発明とてい触する均等、あるいは迂回方法であるし、そうでなくとも、債権者の特許発明を利用した利用発明であるにかかわらず、債権者の許諾なくして実施するものであると主張するのに対し、債務者はこれを争い、とくに債務者のオキサイド法の第一、第二、第三工程は、それぞれ特許出願公告になり、特許権の効力を生じ、いわゆる仮保護を受けるに至つたのであるから、債権者において、債務者の仮保護による権利行使を禁止することはできないと抗争するので、まずこの点について判断する。
(一)債権者の有する、第二〇七、一三四号特許発明の要旨は、双方間に争のない主張事実と成立に争のない甲第一号証の特許明細書によつて明らかな如く、「三位に塩素原子を有するフエノチアジンに第三級アミノアルキルハライドを縮合せしめてクロルプロマジンを得る方法」であつて、その実施例のうち本件に関係のあるのは、3―クロロフエノチアジンを原料として、これとヂメチルアミノクロロプロパンとを縮合する手段を用いてクロルプロマジンを生成する方法であるのに対し、債務者の方法は、争のないその主張事実と成立に争のない乙第一、二、三号証によつて明らかな如く、第一方法は、フエノチアジンの酸化方法、即ち3―クロロフエノチアジンを特殊な方法で酸化して3―クロロフエノチアジン―9―オキサイドを生成する方法であり、第二方法は、フエノチアジン類にアミノアルキルハライドを縮合せしめる点で、債権者の方法と共通するが、右の如き一般的な縮合方法は公知(この点は、前記甲第一号証、弁論の全趣旨からその成立を認めうる乙第六号証鑑定人西川武一、同百瀬勉の鑑定の結果によつて窺われる。)であるのみならず、出発物質は、債権者の3―クロロフエノチアジンと異り、第一方法で得られた3―クロロフエノチアジン―9―オキサイドであつて、これを原料として縮合するのであり、そして生成物資は、債権者のクロルプロマジンとは異り、クロルプロマジンスルフオオキサイド(オプロマジン)であるし、また第三方法はオプロマジンを還元してクロルプロマジンを得る方法であつて、右各方法の一つ一つをとつて債権者の特許発明の要旨と対照するとき、その間にてい触があるとは認め難いし、また相互の代置が容易に可能な均等方法であるとも考え難い。しかも債務者の第二方法によつて得られるオプロマジンが新規な有用医薬品(この点は成立に争のない乙第一九号証、同第五一号証、証人渋沢喜守雄の証言によつて疏明できる)であり、第一方法は、右オプロマジンの中間体の製造方法として価値があり、第三方法はオプロマジンを原料としてクロルプロマジンを製造する方法であり、鑑定人秋吉三郎、同西川武一、同妻木徳一、同百瀬勉、同井本稔の各鑑定の結果により窺われる如く、そのいずれもが、独立した意味と価値を有するものと考えられるのであるから、この三方法を連用したからといつて、それが債権者の特許発明の利用、あるいは均等方法、または迂回方法となつて、てい触するものとは考えられない。けだし、債権者主張の如く、債務者の第一、第三方法が、酸化還元の無用の相殺工程であるためには、第二工程の生成物、オプロマジンが無用の物質であり、債務者の各方法が、単にクロルプロマジンの製造方法としてのみ意味を有する場合に限られるものというべきであるからである。換言すれば、オプロマジンが有用な医薬品であるかぎり、債務者が第一、第二工程によつてこれを製造することは、鑑定人漆原義之の鑑定の結果によつても知りうる如く、一般的にみてけつして無用なことでないのであるから、さらに進んで、オプロマジンを原料としてクロルプロマジンを製造したからといつて、一旦有用であつた右オプロマジンの製造が無用の操作に帰するわけはないからである。そして、債務者が、現にクロルプロマジン(コントミン)のみならず、オプロマジンをも製造販売していることは、当事者間に争がないところよりすれば、債務者において、オプロマジンの生産を全く度外視しているものとはいい難い。もつとも、数多い生産中には、第一、第二方法と、第三方法とを中断せず、前者によつて生じたオプロマジン全部に第三方法を施すといつた一貫方法を用いている場合があるかも知れない。もし、この場合の生産工程のみを捉えれば、有機合成化学上よりして、第一、第三工程は、酸化、還元の無用の工程であるかの如き観を呈するが、特許法上の観点よりすれば、この場合を他の場合、即ち、まずオプロマジンの製造を目的として第一、第二方法を行い、かくして生じたオプロマジンの一部に第三方法を施してクロルプロマジンを得る場合と区別して異別に取扱うべき理由はないものと考えられる。
(二)かりに、債務者の右各方法が、債権者の特許権の権利範囲に属し、且つ両者てい触するとしても、後記の如く、債務者の各方法が、特許出願公告により特許の効力を生じた以上、債権者の特許権を以て、債務者の特許の効力(仮保護)を制限し、その権利行使を禁止するが如きは許されないものというべきである。もつとも、債務者の特許発明が、債権者の特許発明を利用する、いわゆる利用発明であれば、別であるが、両者の間には右の如き関係は認められない。即ち、利用発明とは、先行発明の特許要旨に新な技術的要素を加えたものをいうのであるから、利用発明は先行発明の特許要旨全部を含み、これをそつくり利用したものでなければならない。本件の如き化学方法の特許では、出発物質、化学手段、目的物質の三が特許要旨を構成しているのであるから、利用発明には、先行発明の右三要素がそつくり含まれていなければならないのであるが、本件債務者のオキサイド法は前説示により明かな如く、その第一方法は、手段と目的物質、第二方法は出発物質と目的物質、第三方法は出発物質と手段の点でいずれも債権者の特許発明と異り、その特許要旨全部を含んでいないのであるから、債務者の右各方法を以て利用発明と認め難いのはいうまでもない。
よつて、右前段の両特許、とくに先願特許と後願の特許出願公告による仮保護の効力とが互にてい触する場合につき詳言することとする。
(1)特許権は新規な工業的発明に対し付与せられるものであるが、発明について特許出願せられた場合、特許庁審査官は右発明につき特許要件の存否を審査し、拒絶の理由のないときは出願を公告し、出願公告の日より二ヶ月以内に特許異議の申立のないとき、又は異議の申立があつた場合はそれについての決定をなすと同時に、出願について査定し、出願を容れる特許査定がなされた場合その確定を俟つてこれを登録することにより、右発明につき特許権が発生する。審査官は出願に対する特許要件の審査に当つて、当該発明の新規性、先願の特許発明との同一性について審査し、先願の特許発明とその権利範囲を同くするもの換言すればそれとてい触するものについては特許査定をしないことを建前としているのであるから(特許法第一条、第四条、第八条、第五七条第一項第一号参照)、先願の特許発明とてい触する発明が特許せられることは、原則として審査官の過誤に基く場合以外にはあり得ないと解すべきである。かかる先願の特許発明とてい触する発明が誤つて登録せられたとき、この発明の実施につき特許法上制約があるかどうかについて考察してみるのに
(イ)特許法第三五条第三項には、特許権が先願の実用新案権とてい触する場合又は特許発明が先願の実用新案権を利用する場合について、特許権者は先願の実用新案権者の実施許諾を得なければ、その特許発明を実施することができない旨規定されているが、特許権が先願の特許権とてい触する場合については触れていない。特許権相互のてい触の場合に先願特許権者の許諾を要することは特に規定を俟つまでもなく自明の理であるから右条項に規定されていないと説くものもあるが、叙上のとおり本来先願特許権とてい触する発明は特許登録せられないのが建前であることに鑑みるとき、法はこのような事態を予測していなかつたものと解するのが相当であり、てい触する発明が誤つて登録せられたとしても、その後願の特許に対してはその効力を失わしめる救済手続が特許法に定められているのであるから(この点については後述する)、その手続により後願の特許が失効せしめられない限り、登録せられた以上一応特許権としての効力を発生するものと解すべきで、一応有効に発生した権利について明文の規定がないのにその権利を制限するように法条を拡張解釈又は類推適用することは相当でないと認めるから、特許権相互のてい触の場合は、特許法第三五条第三項の制約に服さないものと解する。
(ロ)特許法第四九条第一項には、特許権者が先願の他人の特許発明又は登録実用新案を実施しなければ自己の特許発明を実施することができない場合において、その他人が正当の理由なく実施を許諾しないとき又はその実施許諾を得られないときは、強制実施許諾の審判を求め得ることが規定せられているが、右条項も前記(イ)と同様の理由並に先願権利者の意思に反し強制してでも後願権利者の権利又は考案を実施させようとするのは、後願権利者の発明等の実施により生産技術の進歩に貢献させひいては生産の向上に寄与せしめようとするところにその目的があるのであるから、先願の特許発明等に対し技術面において何等向上改良のないこれとてい触する場合にまで強制許諾実施請求権を与えることは、法の所期するところではないと解すべきであり、右条項は後願の発明等が先願の特許発明等との関係において利用関係に立つ場合のみを規制するものと解する。
(ハ)右二法条の解釈を綜合して考察すれば、同一発明即ちてい触する二個以上の発明に対し誤つて特許権が付与せられ、てい触する特許権が併存する場合、後願の発明に対し付与せられた権利も、その付与手続が有効になされたものである限りは、確定の無効審決あるまではなお有効のものとして取扱う外なく、後願の発明の特許権者は、先願の特許権者の実施許諾を得ることなく自己の権利の行使として、その特許にかかる発明を実施することができるものと解するのを相当とする。
(2)次に右のとおりてい触する特許権が併存し、先願の特許権者から後願の特許権者を相手どり、特許権侵害を理由に後願の特許権者の侵害行為の差止を裁判所に提訴した場合、裁判所はその前提として後願特許の無効を宣言、または認定し、あるいは両特許のてい触を認めて、右差止請求を認容し得るかどうかについて考察してみる。
特許権は新規な工業的発明に対し付与せられ、特許査定、登録によつて発生する発明の独占的支配を内容とする私権であることは、疑問の余地のないところであるが、特許の付与(特許査定、登録)が行政処分であることも亦明らかといわねばならない。そして登録せられた特許権者はその発明について独占的支配権を有し、その特許が特許法に定められた審判によつて無効とせられ遡及的にその効力を消滅せしめられない限り(特許法第五七条、第五八条参照)、何等の制約を受けることなく(利用発明の場合は別として)その独占的支配権を行使し得るのである。しかしてこの理は、叙上(1)記載のとおり先願の特許権にてい触する発明が誤つて登録せられた場合においても異るところはない。
そうであるとすれば、特許の付与は一種の公定力を有するものであつて、特許無効の確定審決のない限り、何人も特許によつて与えられた前記効力を否定することはできず、従つて裁判所も登録せられた特許権の無効を、無効審決を経ることなく直接に宣言することのできないことは勿論(同法第百二十八条ノ二第四項参照)、特許侵害を理由とする相手方の行為差止請求事件の裁判において前提として、特許法第五七条第一項所定の事由に関する限り、これ等の事由による特許の無効を判断することはできないものと解する。もつとも裁判所が両特許の権利範囲を判定することは許されるが、その結果両特許の権利範囲が全く重複てい触するからといつて、前記特許無効の審決をまたずに、後願特許の実施を禁止するが如きことは許されないのは、叙上説示に照し、自ら明らなところである。
(3) 叙上(1)(2)の理は、後願の発明が未だ登録に至らず出願公告の段階にある場合においても同一である。即ち特許法は、出願にかかる発明が出願拒絶の理由のないものとして公告せられたときは、出願公告のときから出願にかかる発明について特許権の効力を生じたものとみなしているが(同法第七三条第三項)、特許権については登録が権利の発生要件であるとともにその移転等の対抗要件であるに拘らず(同法第四三条第四五条)、同法第七三条第三項により出願公告にかかる発明に与えられる権利については、登録の方法が設けられていないこと、右権利の侵害行為に対してはその発明について登録があつた後初めて刑事責任を生ずるものとされていること(同法第一二九条第一項第三、第四号)等、その保護の態様において特許権との間に差異の存することは否定し得ないが、特許出願により新規な工業的発明に対し保護を与えようとする特許法の立法趣旨、並びに出願公告が登録と同じく出願にかかる発明について公示的な役割を果していること等に徴し、右権利がともかく特許法上特許権と同一の効力を生ずるものとされている以上、特許権の本質的効力である発明の独占的支配権の点においても特許権と異別に取扱う合理的根拠を見出し難い。そして出願公告が行政処分であることに疑いなく、出願公告により出願にかかる発明に付与される権利も、公告後の出願の抛棄、取下等特許法第七八条所定の事由の発生により遡及的にその効力を消滅せしめられない限り有効なものとして取扱うの外なく、特許権自体について説明した(1)(2)記載の理論は、右の場合にもそのまま妥当し、裁判所は特許権侵害を理由とする行為差止請求事件の裁判において、前提として先願の特許権と後願の出願公告になつた発明のてい触を理由に右請求を認容することはできないものと解すべきである。
(4) そうであるとすれば、債務者のオキサイド法の三工程の各方法について特許出願公告がなされている限り(このことは当事者間に争がない)、オキサイド法の実施は、それが債権者法とてい触するとしても債権者の前記特許権の侵害を理由に、これが差止めを求めることはできないものといわなければならない。そして、このことは、債務者が、各特許出願公告にかかる三工程を各別に用いると、はたまた債権者主張の如く連用するとによつて結論に差異を来すべき理由はない。もし鑑定人漆原義之の鑑定の結果によつて窺われる如く、債務者が第二工程によるオプロマジンの製造を度外視して、第一工程の酸化剤と第三工程の還元剤を極端に少くして、直接クロルプロマジンの製造を企てるが如きは、債務者の特許出願公告にかかる第一ないし第三工程の実施に名をかり、債権者の直接法を実施するものであり、とうてい債務者の権利を行使するものといい難いから、債権者においてその差止めを求めうる場合も考えられるが、債務者が、右の如き処置に出たことならびに将来出るおそれあることを疏明するに足る資料はない。
(5) 右のような解釈をとるときは、債権者の主張するように、てい触する二つの発明が誤つて特許登録せられた場合、無効審決の確定までに長日月を要する現状において、先願の特許権者の保護に欠くるうらみのあることは否定し難いが、右は立法による解決をまつの外なく現行法の下では又已むを得ないところというべきである。
第三、さらに債務者は、現在コントミンの製造に関し、オキサイド法を完全に廃止して、トジール法に転換し、将来も亦オキサイド法に復帰する意思も可能性もないから、本件仮処分の被保全権利は存在しないと主張し、債権者はこれを争うので、以下この点について判断する。
(一)債権者は債務者の右主張は時期に遅れた防禦方法であるから却下さるべきであると主張するが、債務者がオキサイド法により製造したコントミン原末を製品に製剤を完了したのは昭和三二年一〇月末頃で、さらにその製品を販売し尽したのは同年一二月末頃であることは後記認定のとおりであり、一方債権者が本件仮処分により差止を求める債務者の行為の中には、オキサイド法により製造したコントミンの販売、拡布も含まれていることは申請の趣旨自体により明白であるから、債務者の右主張を構成する要件事実は昭和三二年一二月末に初めて充足したと解すべきで、翌三三年二月二〇の口頭弁論期日においてこの主張を陳述したことをもつて時期に遅れた防禦とは認め難い。
(二)債務者が現在コントミンの製造に関しオキサイド法を完全に廃止し、トジール法のみを実施しているかどうかについて
成立に争のない甲第四号証の一、二、同第九号証、乙第四五、第四六号証の各一、二、証人松居祥二の証言により成立の認められる乙第四七号証並に同証人の証言、証人角田政一の証言により成立の認められる乙第五三、第五四号証並に同証人の証言、証人本多亮治の証言(第二回)により成立の認められる乙第五七号証の一ないし八並に同証人の証言、及び証人田坂元祐の証言を綜合すれば、次の事実が認められる。即ち、債務者はコントミンの製造に関してオキサイド法と並んで、3―クロロフエノチアジンに第三級アミノアルキルトシレート(ヂメチルアミノプロピルトシレート)を反応しめてクロルプロマジンを製造する方法(トジール法と略称する)についての研究を進め、昭和二九年七月頃トジール法について特許出願をなす一方、トジール法によるコントミン製造の工業化を企図し、昭和三〇年八月頃トジール法による製造過程の中で技術的に最も困難なヂメチルアミノプロピルトシレートの大量合成について略々目当がつき、同年一二月三菱商事株式会社を通じて右合成に必要な機械を輸入すべく同社より右機械の見積書を受取り、翌三一年一月右に必要な外貨割当申請書を通産省に提出したが、同年四月遂に外貨割当を受けられないことになり、已むなく国産機械の調達に方針を変更し、同年六月以降特殊機化工業株式会社、有限会社中津精機製作所に対し右機械を発註、同年八月に至り漸くその納入を終り、その後引続き右機械の操作、工場の安全度(前記ヂメチルアミノプロピルトシレートの合成には爆発性があり危険な金属ナトリウム粉末を使用する)等について研究検討を重ねる中、昭和三二年三月一五日昭三二―一、七三一号をもつて右トジール法の出願について公告がなされた。同年七月頃に至つて右機械を用いて販売のための生産が可能な成績を得るに至つたので、同月一五日厚生省に対しコントミンの製造方法をトジール法によつて実施し得るよう製造許可事項変更許可申請をなし、同年八月二八日その許可を得、同年九月からはコントミンの製造についてはオキサイド法によることを完全に廃止し専らトジール法のみによつており、同年八月末までにオキサイド法によつて製造されたコントミン原末は同年十月末日までに全部これを製剤し、その製品も同年十二月末日までに全部他へ販売し終つて、現在在庫品は全くなくなつている。なおオキサイド法の第三工程〔3―クロロ10(3'―ヂメチルアミノプロピル)フエノチアジン―9―オキサイドからクロルプロマジンを得る方法〕の還元は、当初は3―クロロ10(3'―ヂメチルアミノプロピル)フエノチアジス―9―オキサイド(オプロマジン)を加圧釜中でラネーニツケル触媒を用いて接触還元を行う方法によつていたが、昭和三二年二月反応釜の稀硫酸溶液中で亜鉛末を用いて還元する方法に改めたため、同年三月右加圧釜は債務者吉富工場のコントミン製造工場のD2の建物からF6建物北側へ移動据付を完了し、それ以後はハーモン製造用として使用し、さらに同年八月末まで使用した反応釜は、前記のとおり同年九月以降トジール法に転換したためコントミン製造のためには不要となり、昭和三三年二月二五日同工場G建物に移転を完了し同所においてDR―A及びリントン製造用として使用している。
(三)債務者が将来コントミンの製造についてオキサイド法に復帰する虞の有無
債務者が現在コントミンの製造についてトジール法のみによつていることは叙上認定のとおりであるが、将来オキサイド法に復帰する虞のある限り、その予防のため、債権者が主張する本件仮処分の被保全権利が存在しないといい得ないことも明らかであるから、この点について判断する。
証人藤本学の証言により成立の認められる甲第七四号証並に同証人の証言、成立に争のない乙第四五号証、同第四六号証の一、二、前掲乙第四七号証、証人本田亮治の証言(第二回)により成立の認められる乙第六三号証の一、二、並に同証人の証言(第一、二回)、証人松居祥二、田坂元祐、角田政一の各証言及び鑑定人星野敏雄、杉野喜一郎の各鑑定の結果、並に当裁判所の嘱託による大阪市立工業研究所の鑑定の結果を総合すれば、債務者が現在コントミンの製造について実施しているトジール法においては、ヂメチルアミノプロパノールナトリウムアルコラートとトジールクロリド(パラトルオール・スルフオクロリドともいい、分子量約一九〇)とを反応させて製造するヂメチルアミノプロピルトシレートを、原料の3―クロロフエノチアジンに縮合反応させてコントミンを製造しているが、右縮合剤の原料であるトジールクロリドは、サツカリン生産の副産物として安価に入手でき、債務者もこれを瓩当り七・八〇円で買入れトジールクロリドを製造していること、これに対し債務者が従来実施していたオキサイド法の第二工程の縮合反応に用いるヂメチアルミノクロロプロパンの原料であるチオニールクロリド(分子量約一一九)は、瓩当り約五百円の価格で債務者も従来この価格でチオニールクロリドを買入れヂメチルアミノクロロプロパンを製造していたこと、原料の3―クロロフエノチアジンからコントミンを得られる収率は、オキサイド法において約三〇ないし四八パーセント、トジール法において約四五ないし七〇パーセントであること、クロロフエノチアジンを出発物質として終局物質コントミンを製造するまでに、オキサイド法では一五日(オプロマジン製造までに九日、その還元に六日)トジール法では六日を要することが認められる。
以上認定の諸事実を綜合すれば、コントミンの製造について、トジール法による場合はオキサイド法(三工程を含めての意味に用いる)による場合に比し、収率が大きく、主要原料であるトジールクロリドがチオニールクロリドより安価であるから、トジールクロリドとチオニールクロリドの分子量の相違を考慮に容れても、トジール法の方が材料費の点において相当安価であるのみならず、製造期間の長いこと、工程数の多いことは特別の事情のない限り人件費、動力費、設備費等材料費以外の費用を増大せしめるのが通例であるから、それ等材料費以外の費用の点においてもトジール法による方が低廉につくことが認められ、コントミン製造についてはトジール法がオキサイド法よりも経済的に有利であるといわざるを得ない。このことは前掲甲第七四号証並に証人藤本学の証言により認められる、塩野義においてトジール法の収率を五四パーセントとし、トジールクロリド瓩当り九〇〇円チオニールクロリド瓩当り一〇〇〇円その他の諸材料は国内の一般市場価格により、債権者法、オキサイド法、トジール法三者によるクロルプロマジンの製造原価を算定した結果、オキサイド法による場合を一とした場合トジール法による場合は〇・五六七となつたことに徴しても肯定されるところである。
叙上認定のとおりオキサイド法の第三工程の還元に必要な機械は、現在他の用途に転用せられているとしても、それが現在コントミンを製造している債務者吉富工場内に現存する限り、債務者においてその意思さえあれば、再びそれをコントミン製造用に使用することは容易であるから、債務者が将来コントミンの製造についてオキサイド法へ復帰する物理的可能性のあることは疑いをいれないが、営利を目的とする債務者として、同一のコントミンを製造するについて、他に特段の事情のない限り、原価、製造期間、収率、工程等の諸点でオキサイド法より有利であり従つて綜合して経済的に有利なトジール法を今後も実施し、事情の変化のない限り将来再びオキサイド法に復帰しないであろうことが推認でき、債権者は、トジール法が田辺製薬株式会社の特許出願公告中のヂメチル・アミノプロピル・トシレート合成方法その他将来他人の特許権侵害の故を以て、その実施を禁ぜられ、オキサイド法に復帰する可能性があるものの如く主張するが、これを疏明するに足る資料はない。さらに一応信用のある製薬会社である債務者の生産計画の担当者において今後コントミンの製造につき再びオキサイド法に復帰する意思なく将来も引続きトジール法のみによると言明している限り(この事実は証人田坂元祐の証言により認められる)、将来債務者が再びオキサイド法に復帰する虞れはないものと認めるのを相当とする。債務者がオキサイド法の第一、第二工程の方法により現在オプロマジンを製造し将来もこれを継続する意思を有することは、債務者の自ら認めるところであるが、オプロマジンが、債務者が主張する程のコントミンと異つた卓効を有する新薬であることには多少の疑いが存するとしても、成立に争のない乙第一九、第三四、第五一号証、証人奥田充夫の証言により成立の認められる乙第六〇号証の一ないし一五五、証人奥田充夫、渋沢喜守雄の各証言を綜合すれば、オプロマジンは血圧低下、脈膊減少等の副作用が少いという点その他でコントミンと異つた効力を有し、相当量の需要があることが認められるので、債務者がオプロマジンの製造を継続することをもつて、直ちにオキサイド法への復帰の意思又は可能性を推断することは相当でなく、況んや、債権者の主張する如く、債務者が、オプロマジン製造を足場とし、トジール法が債権者法に劣るところから、オキサイド法を、債権者の直接法と変らない方法(酸化還元を極端に省略する方法)で実施するおそれがあるといつたようなことはこれを疏明するに足る的確な資料はないのであるから右事実は前記認定を覆す資料となし難い。
(四)そうであるとすれば、債務者が現在オキサイド法を実施してコントミンを製造販売することにより債権者の前記特許権を侵害し或は将来その虞があるという債権者の主張は、とうてい採用し難く本件仮処分申請はこの点においても、被保全権利を欠き失当たるを免れない。
第四、以上の理由により債権者の本件仮処分申請は理由がないからこれを却下し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 金田宇佐夫 裁判官 戸田勝 裁判官伊藤俊光は転補につき署名捺印できない。裁判長裁判官 金田宇佐夫)